美術史と美学の違い

ストゥディウムとプンクトゥム

美術史を知らないと芸術は理解できないのか

美術史を知らないと芸術は理解できないのか。こう問われるなら、答えはもちろん「そんなことはない」である。

七⾯倒くさい美術史の知識など持ち合わせてなくても、芸術作品を味わい理解することはできる。むしろ知識が邪魔をする場合だってあるだろう。

その証拠に、古今東⻄の名作や傑作を⽬の前にして、幼い⼦どもたちが⾒せる反応や発する⾔葉にハッとさせられることがある。しばしば本質を突いているからだ。

美術館に真美は存在しない

先日アムステルダムで開催しているフェルメール展に行ってきた。フェルメールに関してほとんど前知識がなく、むしろ詰め込まないようにした。

展示会には圧倒されるものがあった。オーガナイザーの意図としては、フェルメールが用いた技法に意識を向けさせたかったようだ。エリアごとにそのような解説があった。

なるほどフェルメールの写実的な技法は、たしかに写真を見ているのかと思わされるほど巧みだった。

空間構成も素晴らしく、ある意味写真が出せる以上の奥行きを表現しているように思えた。 しかし、これが真の芸術体験かと問われたら、間違いなくNOだろう。

むしろそんな知識を詰め込まない方が、向こう側にある真美なるものに近づけるのではないのだろうか。

真の芸術体験とは、描き手の精神が宿らせた何にも言い表しがたい臨場感を感受することであり、その言葉をもって表すことのできない領域へ誘われることなのではないだろうか。

つまり、美術館とは単に「美的なるもの」を並べているだけで、例えばフェルメールが本当に表現したかった「真美」なるものを体験する場ではないということだ。

知識が真美の感受を遠ざける

作者は誰か。
主題は何か。
意図や⽬的はどこにあるのか。
深い意味が隠れているのか。
どんな時代背景があるのか。
誰の影響を受けて、誰に影響を与えたのか。
構図や⾊彩の特徴は何か。
いかなる流派や傾向に属するのか。等々。

美術史はそれらの知識を与えてくれるが、だからといって、それで芸術を理解できたというわけではない。

かくいう私も、残念ながら「わかった」と⼼から納得できるような瞬間を経験したことはない。

芸術と向き合うことの本当の意味

絵画あるいは広くイメージは、⾔葉には及ばない。だが、⾔葉を超えるものでもある。

美術館や寺院などで絵や仏像を前にして、感想や感動を伝えたいのだけれど適切な⾔葉が⾒つからない、という経験は誰にでもあるだろう。

寡黙にして雄弁
⾔葉以上で⾔葉以下
⽋如にして過剰

この両義性こそが芸術の最⼤の魅⼒であるといってもおそらく過⾔ではない。

⼀枚の絵がはらむ⽋如のゆえに、私たちはそれを埋めるべく語ることを余儀なくされ、過剰のゆえに、語ることの限界を思い知らされる。

こういう二項対立の狭間にある向こう側の分別を超えた世界、つまり無分別の領域にこそ真美は存在するのである。

そして、そういう未知の領域があるということを直観した時に、人は鍛錬することの重要性を悟るようになる。

二種類の芸術体験

フランスの思想家ロラン・バルトは、芸術体験には二種類あると言った。

一つ目は学習や知識によって芸術を読み取るもので、ラテン語を踏まえて、前者を勉学や熱意の意味で「ストゥディウム」と名づけた。

二つ目は芸術のほうから私たちの眼差しに突き刺してくるものとして、同様に突起や先端の意味で「プンクトゥム」と名づけた。

美術史はあくまでも前者の側に属するものだが、後者、つまり私の眼差しを否応なく貫き、私を揺さぶる「プンクトゥム」の正体を⾔い当てることは困難である。

これにはまた個⼈差もあるから、そこには美術史の踏み込める余地などほとんどない。

⾔うまでもないことかもしれないが、美術史は万能ではないし、着地点でもないのだ。

とはいえ、「ストゥディウム」は必ずしも無⽤の⻑物というわけではない。知っていて損にならないことは世の中少なくないが、美術史もそのようなものだ。

キリストのイコンや仏教の阿弥陀仏像を、いにしえの⼈たちは⼀体どのような思いで眺め崇めていたのだろうか。

それを想像することは貴重な美術体験になるが、それにはやはりなにがしかの知識が必要である。

私たちを取り巻くどんな⾔説や制度にもルールやコードなるものが存在する。

芸術の世界(アートワールド)もまたその例に漏れない以上、そこで作⽤しているルールやコードに通じておくことは、翻って、それらの権威を批判したり、専横を⾷い⽌める契機にもなるだろう。

しかし、現在の美術史の授業をはじめ、教育市場というのは前者「ストゥディウム」を詰め込み、能書きだけのスノッブな人間を育成しているように映る。

語り得ぬものの領域への誘い

芸術作品を前にして、自己満足感だけでは物⾜りないが、だからといって、なぜその作品が権威者たちの間で高い評価を得ているのかも分からない。

こういった時に、人は美術史や美学から深い学びを得たいと思うようになる。

芸術作品が持つ二項対立の間に潜む中間地帯に⾝を置きつつ、知りえることと知りえないこと、語りえることと語りえないことの境界に眼差しを向けること。

それこそが美学から学べることなのである。